2006年度ティーチングアシスタント Y田美加
Y田さんは1976年、兵庫県に生まれる。当時仕事の関係でカナダに在住していた父親が、カナダの自然のように雄大で美しく育って欲しいとの願いを込め、漢字による当て字の加奈陀(カナダ)の加の一文字を取って、美加と名付けられた。
「生まれてすぐにカナダに渡って小学校に上がるまで住んでいたの。だから飛行機での移動はしょっちゅう。飛行機が慣れ親しんだ存在だったから、小学校1年生くらいから自然とスチュワーデスになるもんだと思っていた。不思議なんだけどね。」
小学校1年生から日本に帰国。千葉県で、高校卒業までを過ごす。
■光と影~挫折体験から得たこと
転機は高校で新体操部に入ったことだった。
「憧れだけで気軽に新体操部に入ったのね。そうしたら入った部活は全国でも有名なところで、私以外はみんなスポーツ推薦で来ているようなうまい子たちばかり。すごく厳しい部活で365日練習って感じなの。だから体力的にも技術的にもついていけなかったの。」
しかし、なにより辛かったことは、精神的なことだった。
「練習はみんなと一緒にやるんだけど、レギュラーではないから実質マネージャーとして裏からみんなを支える立場にいたのね。マネージャーは選手達の演技に対して客観的にダメだしをやることも仕事。でも、自分に求められる役割と、私自身の、自分に出来ないことを人に指摘する自分が許せないという葛藤があって辛くてたまらなかった。」
強豪の部。3年間、きらびやかな表彰台に立つ仲間達を常に縁の下から支え続けた。
「チームの一員としてはすごくうれしかったし、みんな感謝してくれてはいたけど、自分がレギュラーとして一度として舞台に立てなかったことは辛かったし悔しかった。だからこそ、その悔しさをバネに、スチュワーデスになろうって強く思ったの。いつか自分が望む舞台ではスポットライトを浴びることができるように努力していこうって。今振り返ると悔しさをバネに畑を耕していた時期だったのかな。」
同時に気づいたこともあった。
「ものすごく辛かったんだけど、人が何かできるってことは、裏でいろんな思いを抱えながら支えてくれている人がいるからこそできるということを、自分が裏を体感したからこそ思い知ったの。一人じゃないってことを。」
同じ部にいながら光と影、影の部分を十分すぎるほど味わった時期でもあった。
■人生を変えた一冊の本との出逢い
高校卒業後、千葉県を離れ、兵庫県の大学に進学。高校時代のもやもやとした葛藤が晴れない中、大学1年生のときに経験した阪神大震災の経験は強烈だった。
そんな折、一冊の本と出逢うことになる。飯田史彦著の「
生きがいの創造」。この本との出逢いが人生に対する考え方を大きく変えた。
「特に親しい人が亡くなったとかではなかったんだけど、自分はなんのために生きているんだろうということを、大震災を経験して、より一層悩んでいた時期だったから、本の中に書かれていた、『今この場にいることは必ず何か自分にとって意味があるからこそ経験している。だからこそ、その意味を感じながら自分らしく生きていくことが大切だ。』というメッセージをもらった気がしたの。それからかな。人生、やれるだけやって、楽しもう。やらなきゃ何も変わらない。後悔しない生き方をしよう。そんな風に考え方が変わっていったかな。」
震災後、アルバイトや、YMCAのボランティアに参加するなど積極的に行動するように変化していった。
■ティーチングアシスタントとして
大学卒業後、念願のスチュワーデスになり、夢もかなえた。航空会社に勤務しながらも、仕事を超えて会社の中で自分の力を役立てたいと、社内のボランティアグループに参加。そのグループメンバーから、とある朝食会に誘われた。赤坂ブレックファーストクラブ。そこで、講座主催者に東大で行われている大学院の講座でティーチングアシスタントをやってみないかと誘われることとなる。
「ちょうど、転職を考えたり、いろんなことを勉強したい、ボランティアをやりたいって思っていた時期だったから、なんてラッキーなんだろうって思って、参加したんだ。」
ティーチングアシスタントは2005年と2006年の2年間経験した。国際線国内線問わず、あちこちをフライトで飛び回る日々。一月でわずか10日しか日本にいることができない。当然時差もあるため24時間起きていることはザラ。仕事だけでも体力の限界を感じる中、残された10日を講座やミーティングにすべて注いだ。
「なんであそこまで熱狂的に参加できたのかな。ちょっとおかしいくらいだよね。振り返ってみても、いまだによくわからないんだけど、チームが一丸となって何かに向かっているとき、そのパワーにぞくぞくしたし、興奮した。すごくうれしかったな。優勝しなくても、知り合った人たちとその後も仲良くできたり、いろんなことがあっても、そのプロセス1つ1つがすごくいとおしかったな。」
昨年Y田さんが担当したチームは、チームマネジメントに苦戦したが、最終的には1つの事業計画を纏め上げた。途中、チーム存続が危ぶまれたことすらあった。なぜ、最終的に事業計画を纏め上げることができたのか聞いてみた。
「外部者からは失敗と見えることも、中の当事者しか分からないことがあって、何が幸いするかなんて分からないでしょ。だから私は、世の中失敗なんてあまりなくて、失敗も成功への糧とも思っているんだ。チームTA同士はすごく気があっていたんだけど、チームメンバーは個性豊かで優秀、でもバラっばら(笑)。でも、メンバー同士、失敗から学んで、最後はお互いを認めて、「やるぞ!」という熱い気持ちを共有してやりきったからこそ、生まれるものがあったんだと思っているよ。そして彼らがそういう風に変わっていくプロセスを、信じていられたことが自分を強くしたとも思っているかな。」
■チーム1から教えてもらった私の宝物
講座が終わった今、Y田さんは今後どうしていこうと考えているのだろうか。今後の展望を聞いてみた。
「自分が世の中に役立てられる力、そして自分も熱中できるものって何かなぁ?って、ずっと考えてるの。まだそれがなんなんだか分からないんだけど、自分が生涯これをやったって思えることを探して、実行してやり遂げたいとおもっているの。」
「今思いつくことは、家族のつながりを強くするようなものをつくりたい。例えば女性って、結婚したり出産して奥さんが仕事をやめたりすると、社会とのつながりが急にうすくなっちゃうでしょ。だから、そんなとき、社会と女性をつなぐような、それから、家族同士をつなぐような、そして、いろんな人とのつながりをつくれる何かをしたいと思っているんだけど、でも、それがどういう風にやればいいんだか、まだはっきりとは分からないの。ただ、1ついえることは、『人がなにかできるってことは、必ずどこかで自分を支えてくれている人がいる。』って事かな。でも、いつも誰かが支えてくれるということで甘えるのではなく、何かの組織を動かしたり、人を動かす為には、『一人でもやる。やらなきゃいけない』という大志が必要。でも、『その大志に響き合える、みんなで力を合わせてやる、みんなで作りあげる』事に最終的にはなればいいな~、とは思う。それは、チーム1から教えてもらった私の宝物だよ。」